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Sapporo Chapter of Wild Bird Society of Japan

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北海道と中西悟堂のことなど

日本野鳥の会奥多摩支部 高萩 至

私は昨年の夏まで、中西悟堂研究会の事務局を与っていた。悟堂研究会は、日本野鳥の会創始者中西悟堂精神の復活を目指し平成十七年春発足した。

世話人は、津戸英守(悟堂直弟子)、中村滝男(元日本野鳥の会専務理事)、鈴木君子(日本野鳥の会専務理事)と私の四名で、現在まで会報誌「野鳥居」二号までを発刊、現在三号編集中。

研究会が行った「中西悟堂事跡の旅」は「野鳥」誌に不定期に掲載している。創刊号への寄稿願いを悟堂ゆかりの方々に送付したところ、元札幌支部長の土屋文男先生から寄稿する旨のお電話を頂いた。

土屋先生は『定本野鳥記』の月報8(昭和五十四年四月二十五日)に「中西悟堂先生の体操」、『悟堂追憶』(平成二年十ニ月)に「生涯一書生」の文章を寄稿された。

悟堂は、昭和十四年七月下旬から八月初め、昭和四十年八月末の二回、北海道へ渡っている。

一度目は八重子夫人の兄が道庁総務部長に赴任した時に妻子を伴って訪ねたものと思われる。

この時の紀行文は『野鳥記』第七巻・平野と島の鳥に「北海道の原野と島」、第六巻・雲表に「大雪山紀行」として載っている。

七月二十三日夜札幌を井上元則氏(後の農博)の案内で野幌林業試験場の官舎に赴き、かねてからの憧れの野幌国有林の野鳥群への訪問が始まった。

「早く行かないとエゾセンニュウが鳴きやむから」と井上氏は足を早める。

トッピンカケタカが聞きたくて早朝三時半に床を離れた。

オカトラノオやメマツヨイグサの花の路傍の野地に坐って耳を傾けるその声を、悟堂は始めてきくものだった。

本州の山では少ないハリオアマツバメの群舞に感動し、低い牧柵にとまって囀るシマアオジに嘆声が洩れる。ベニマシコをその生息地で夏鳥として始めて見た。

二十五日から二十七日は厚岸の臨海試験場・大黒島・厚岸湖・ベカンベウシ河口・尾幌川を山階芳麿侯爵等と訪ねた。山階侯爵との別れに名残を惜しんで弟子屈へ向う列車に乗る。

二十八・二十九日は屈斜路コタンを詩人の更科源蔵さんと訪ねた。源蔵さんとは昭和三年悟堂創刊の詩誌『濶葉樹』による交わりである。

源蔵さんの『屈斜路コタンの野鳥群』に触れる。ここでは鳥はいかにアイヌの中で生活化され、神聖化されていることか。一番偉い神はシマフクロウのコタンクルカムイ(部落を守る神)、エゾフクロウのクンネレカムイ(夜の神)など鳥はみんな神様なのだ。

源蔵さんの家の二階で熊皮を敷いて語った一夜はめったにない楽しい一夜だった。源蔵さんとの再会がこの旅の目的のようだった(その後の美幌峠、屈斜路、摩周、阿寒等の旅の記は省略された)。

八月一・二日は釧路、丹頂生息地を訪問。

八月四・五日は旭岳を試みるが、猛烈な風と霧で諦めている(大雪山紀行)。

二度目の北海道は昭和四十年八月二十六日から三十日の利尻・礼文島。

羽田から千歳へ飛んだ悟堂は札幌のホテルで北大の犬飼哲夫博士・道庁の斉藤春雄氏と会うが、その席に札幌市東保健所長土屋文男医博も同席された。

旅の模様は「火の島利尻 花の島礼文」として『野鳥記』一二巻に収められた。

「あいにく鳥の観察には最悪の時期であった。それでもこの両島は、私だけの単独行動で再度行きたい意欲をそそられるだけのものは十分にあった。今回は予備旅行だ。」

私も平成十二年七月、札幌の臼田正さんのお膳立てで礼文島の探鳥を経験した。

木内宏『礼文島、北深く』に触発され、途中から雨に祟られて、辿り着けなかった宇遠内を今も幻想する。

私が始めて北海道を訪れたのは、半世紀も前の昭和三十四年五月初旬。札幌の友人・HBCの深谷勝清を頼って、道東から道南を二週間かけて巡った一人旅だった。

コースを記録したHBCのメモ帳と根室から歯舞行きの切符が一枚残った。原野を一人とぼとぼ歩いていた折、雷鳴のような音をたてて畑に急降下してきた中型の鳥が忘れられない。

支部報「カッコウ」2008年1月号より